大久保忠男氏を悼む(1)

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昨日、私に多くの哲学的示唆を与えてくださった、
大久保忠男氏の突然の訃報を受け取った。
大久保氏からの力添えがあってこそ、
今の私があると言っても過言ではない。
大久保氏が地上に遺したものは大きい。

ちょっと、抜け殻になった気分。
物事を霊的視点から見る私にとっては、
必ずしも、死は忌み嫌うものではない。
死は途中駅に過ぎないし、
新しい衣に着替えるようなものであるというのは、
わからなくない。
が、やはり私は地上に生きる人間。
死を、それも親しい方の死を受け入れるのは、
簡単ではない。
しばらくは、この寂しさと共に、
日々を過ごすことになるだろう。

ここまでハートで思考していたら、
平原絢香の「ジュピター」が流れてきた。
そうだ、この歌詞の通り、
深い深い胸の奥でつながっている。
大久保氏に出会えた奇跡は、実感として今もある。

 

大久保氏追悼の思いを込めて、
本日から4日間連続で
大久保氏が昨年11月、FB上でアップなさった記事の中で、
私がとりわけ感銘した
「マスターBが<人間の謎>について語る」を
シェアさせていただきたい。

語り口は大きく違うが、
この「月に帰らないかぐや姫のブログ」の根幹と
同じことを語っている。
言葉というものは、同じことを、
これだけ表現を変えて伝えることができるという証のようなものだ。
哲学好きの方には、喜んでいただけると思う。
大久保氏も、統合に向かおうとなさった方である
ことがお分かりいただけると思う。
ぜひ、おつきあいいただきたい。

記事の後に、ご参考までに、
当時、私が入れたコメントも掲載しておく。

 
 
゜+.――゜+.――゜

 

マスターBが<人間の謎>について語る(1) 2016年11月2日

 

ある日ある時、

テラスで陽にあたりながらうとうととしていると、
マスターBがやってきた。
そして、いつものように語りはじめた。

マスターBは、私が敬愛する哲学者であり、
この宇宙と人類の成り立ちを明らかにしてくれる教師だ。
夢うつつのなかで聞く彼の語りは、
私の潜在意識に直接働きかけ、
私の意識全体を変容させる。

今回も、彼はこんなふうに語りはじめた。
さぁ、また一緒に考える旅にでかけよう。
おおいなるまなざしとなって、
生命を宇宙を人間を探求しよう。
私たち人間はどこからやってきたのか?
私たち人間とは何か?
私たち人間はどこへゆくのか?
これまで、こうした疑問を持たなかったことはないだろう。
誰の心にも浮かんでくる本質的な問いだ。

しかし、この問いに答えるために探求する意欲や時間が
誰にでも与えられているわけではない。
たいていは、日常生活の忙しさに紛れて、
ほんの一瞬浮かんだ問いも消えていってしまう。
哲学者こそが、
こういう問いに対して対決し探求し答える責務を負っているはずだ。

ところが、往々にして、哲学者という種族は、
一般人にとって切実なこうした問いを無視して、
哲学にとってもっと重要だと彼らが考える問いに向かう。

それは、言葉の定義であったり、
観念論や唯物論の歴史的解釈であったり、
要するに哲学体系にとって重要な問いかけのほうに引き寄せられるのだ。

これらの問いかけから生まれる答えは緻密だが、
たいがいは図式的であり空虚なものだ。
すべてを包み込み、
なんにでも答えられる便利な風呂敷のようなものになりがちなのだ。

 

・・・・・

以下コメント

私:すごいな、マスターB! 見事に重みのある語りだ。
便利な風呂敷では、今私たちが望む、本質的な真実には届かない。
哲学体系のための哲学はこれまでの役割を凌駕し、
時代に合わせて、大きくシフト(変容)する時が来たのでしょうね。
素晴らしい\(^o^)/。ワクワク。(2)を楽しみにしています。

大久保氏:ありがとうございます。マスターに教えをこうパダワンの位置づけです。

 

゜+.――゜+.――゜

 

今日の写真は、追悼の思いを込めて、
白いアスチルベと光

花言葉は「自由」

 

 

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